昭和43年04月02日 朝の御理解
昨夜、お月次祭が終わってからで御座いましたが、久留米の古賀さんが、今度自動車を、新車買い替えられます。昨日その新車が参りました。その新車で、昨日はお参りをしておられました。そして、あの、自動車にお祭りをする御神米を頂きたいと言うので御座います。それでまあ、若先生にあの、自動車のお払いをして頂きました。私はここであの、お初穂の整理をしておりました。
そしたら古賀さんがあの、単車に乗ってお出でられる所の御心眼を頂いた。で私はまあ、あちら済んでから、私自らこっから慌ててあちら下りて行ってから、まあ古賀さんに申しました事出御座いますが。古賀さんあのこの車に乗らせて頂く時にね、大体を言うたら、まあ単車ぐらいにしか乗れる資格がないのだけれども、神様がこうしておかげを下さっておるのだ、と言う気持ちを忘れずに乗りなさい。
その気持ちで使わせてもらいなさい。そしたらおかげ頂くよと言うて、申しました事で御座います。ほいで私もうっかりしてましたが、こうして御神米は、あのちゃんと用意しとったんですけども、もうそれだけ頂いてから、私も古賀さんも帰られた、私も送って、ここへまた座りましたら、御神米を持って行ってない。あらこら御神米頂いて行っちゃない。例えばね金光様のご信心が、その御神米を頂いておるから。
御神米を頂いておるからおかげを頂くと言うのじゃないのです。例えば今私が古賀さんに申しました様な気持ちで一事が万事に。例えばんならまあ自動車の事で御座いますから、自動車なら、ほんとにこういう資格もないのに、こんなもう、実にしょうしゃな真っ白のですね、スポーティなの感じのする車なんです。ですからいかにもそれに乗る時、是はもう、私共も何時もそれを感ずるのですけれども。
例えば良い着物なんかを着ますとですね、何かこう澄ましてみたくなる。写真あのカメラの前にでも立ってですね、もうほんとに、その着物が自分の身に付いておる物の様に、錯覚する事がある。綺麗な部屋なんかに、こうして住まわせて頂いて、お家に住まわせて頂いておりますとです。いかにもそれが、もう当たり前の事の様にあり、もうこの部屋の自分が主の様な気になる。
そこに私はおかげを落とす元と言うよりもですね、喜びの妙に触れられない、信心の喜びに触れられない結果が生まれて来る。「妙賀栄えて富貴繁盛」と仰る、その妙賀がどこから生まれて来るか。賀びの妙と言うのはどこから生まれて来るか。皆さんどうですか。立派なお家に済んでおられる。立派な布団を着て休ませて頂いておる。立派な道具を使わせて頂いておる。立派な車乗せて頂いておる。
それがほんとに、自分の身に付いたもの。成程自分の金で買うたもの。成程自分の家で建てた家。だから自分がそこの主人であり、主であると言う事はです、普通から言やそうどころじゃないのですけれども、信心はそこではおかげは受けられん。昨日の御理解の、御理解第3節の所に、ちょっと説明不足の所が御座いました。それはね、「天地金乃神と申す事は、天地の間に氏子おっておかげを知らず。
神仏の宮寺氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らずに方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々のめぐり合わせで難を受けおる。この度生神金光大神を差し向け。願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたす事、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つ様にいたす」と言う、この事を昨日頂いたんですね。ここんところのね、「神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず」と言う所。
ここんところを昨日、私は説明しませんでしたですね。神仏の宮寺、お寺さんであろうが、お宮さんであろうが、氏子の住んでおる家であろうが、屋敷であろうが、みんな神の地所と仰る。是は地所だけじゃありません。一切が神様の御物だと言う事を、ここには表現してあるのです。いうなら、神様のお家なのです。ほんと言うたら。それを自分がそこの主でんとして、もし座るとするなら、是だけでもご無礼になる。
是だけでもめぐりを作る事が分かりますね。昨日のどうぞあの御理解の延長ですから、その積りで聞いて下さい。ここんところの説明不足の所。所が私共がです、良い着物を着たり、良い部屋にこうやって座らせて頂いておりますとです、私共の様にこういうまあ「素晴らしい、素晴らしい」と皆さんから言うて頂く様なお広前に、こうやって奉仕させて頂いておるともう、まるきり私のお広前の様に錯覚する事がある。
客殿なんかに、お客さんを迎えて、あそこで座らせて頂いとると、私の部屋に、お客さんを迎えて居る様な気がする。あれはいうなら親先生の為に、親先生の為にあの部屋は出来た。年に5回、6回はみえる。そん時に入って頂く、部屋にあれは造らせて頂いた。と言う事は、親先生はそのまま金光大神様。金光大神様は即天地の親神様。神様の為にあの部屋が出来た。
ですからそれは私が主ではなく、私の部屋ではなく合楽教会の、もちろん部屋でもないそこんところをですね、私共が分からせて貰わにゃいけません。自分がそこの主の様になる。ある先生から聞かせて頂いた。ある先生って福岡の三代吉木辰次郎先生です。何回も聞いた話があるのです。ある所に宅祭にお出でられたご直会が始まった。するとそこの家内が、エプロン掛けながらやって来てから。
御神前の魚ばちょいと下げて持って行った。下にある野菜ば、ちょっと引っ抱えてから持って行くから、「おいこらこら」ちゅうてからその、まあ言うた。「あんた神様へお供えしとる物ば、自分のごと思て、自分の物のごと思てから、断るもなしにあんた持って行きよるなら」「いいえ、これでご直会作らしてもらう」「いくらご直会作らせて頂くでも、神様にお断りをしてから頂かにゃいかん」ね。
「あんた達が、そういう心掛けじゃからおかげ頂かん」裏に野菜が作ってある。子供に「大根一本とって来い」「白菜一つとって来い」まるきり自分の物の様な事を言う。神様頂きますと言う気ね。そういう気にならなければお道の信心はおかげにならんよと言うてその、言うたというお話を聞いた事があるんですけれども。もうまさしくその通り。是は御神前にお供えをしておるお供えだけの事じゃありません。
御神前にお供えしてあるとだけが神様の物じゃありません。それこそ畑に埋まっておる野菜でも神様の御物。「頂いて来い」その頂いて来いが、大地を拝んで抜く様な心持になるとと仰る。大地を拝んで抜く様な心持になると、それを煮てまた食べる時に、「神様頂きます」という心あらば、障る事も当たる事もない、と仰る。自分の畑から自分がとって来て、自分が煮て、自分が食べる所に、当たり障りがあるのだ。
いや今日の御理解を頂いておると、それが前々のめぐりで難の元を作るのです。我が物顔な、その生き方こそがお道の信心に反する。お道の信心と言うのは是はもう人間全ての物が、そこんところをほんと言うたら、分からなければならないのだけれども、立派な家が建つともう自分が家を建てた、自分が信仰して建てた家だ。自分がそこの主になり済ましてしまう所に前々のめぐりを作る。
神仏の宮寺、氏子の家屋敷みな神の地所とこう仰る。野菜一本頂くでも大地を拝んで頂く様な心持ちになればそれを煮て食する時に「神様頂きます」という心あらば、と仰る。私達はですねもう本当に迂闊に致します。自分がこの自動車の主の様に思う。そしてそのしょうしゃな車に乗って、自分も瀟洒な洋服でも着て、何とはなしにね、もうまあ気分がいいですね。もう本当に迂闊に迂闊にそういう気分になる。
そこん所をです本当言うたら単車にでも、乗れる資格がないのかも知れんのだけれども、まあここん所は御理解ですけれども。そういう自分はまあだ単車に位しか乗る資格がないのだけれどもこういう車に乗せて頂いて「勿体無い事じゃ相済まんことじゃ」と言う気持ちになって、その車を使わせて頂けば、事故なんか起こす事はない。それを煮て食するときに「神様頂きます」という気にあらば当たる事なしと仰るそれなんです。
自動車を使わせて頂くのに、いうたらその自動車の主は神様。済みませんと神様に受けて頂く様な気持ちで、神様に貸して頂く様な気持ち「資格のない私が頂いておる」と言う、その謙虚な気持ち。そこから私は、妙賀が頂けれる。賀びの妙と言うのはそこから頂けれる。それが富貴繁盛に繋がるのであります。そう言う事になって来るとです。形の上の御神米はもう要らない事になって来るんです。
形の御神米。是は御神米は御神米としてのお徳が有ります様に矢張り。けれどもです、金光様のご信心をする者は、いつも御神米ば頂いておらなければ、安心しちゃ居られない。 自動車に御神米がちゃんとお奉りしてなからなければ、気持ちが悪い、と言った様な信心ではなくてです。もうそこにはですね。神様の車を使わせて頂いておると。古賀慎二の車じゃない、神様の車。
そういう気持ちでおりゃもうその車全体が神様。一部の御神米じゃなかろうがしかも昨日の御理解のですね、どう言う様な事で私共が難儀な元を作るだろうか。どう言う様な事が私共がめぐりになって行きよったじゃろうか。それが分からない所を昨日あの様に懇切に頂いた訳なんですね。言うならばもう是からは巡りを作らんで済む、難儀をつくら難儀の元を作らんで済む、おかげの頂けれる御教えを昨日は頂いた訳です。ね。
その言わば言葉足らず、ここのところのだけが、説明がしてなかった。お宮様であろうが、お寺様であろうが、氏子の家であろうが、屋敷であろうが、皆んな神の地所、その訳を知らず、とこう仰る。その訳を知らずに、自分がそこの主になる。そこにですやっぱご無礼が出来ますよね。神様の物を横取りしておる様な感じだ。横領しておる様な感じだ。その訳知らずとこう仰る。
成程是だ。成程是がご無礼がいよいよ積み重なって、難儀の元が出来るんだなと言う事を感じます。どうぞ皆さんでも、立派な例えばんなら、お家に住んでおられる方は、なら横にあるあの小さい家、あの家にでも住むがたの資格のない私が、こういう素晴らしい家に住まわせて頂いて、勿体無いと言う事を分からにゃいかん。こういう着物を着せて頂いて、もっとみすぼらしい風しておる人。
ほんと言うたらあの位な資格もないのだろうけれども、この様な素晴らしい着物を着せて頂いて有難い。そこに言わばめぐりの元を作って行かんで済む信心と同時に、そこから私はそういう心持になる時に、妙賀が頂けれるのはですね、矢張りあの神様が、本当の事が分かったから、喜んで下さるその喜びが、こちらの心の上に、妙賀となって伝わって来る。妙賀、賀びの妙。どっから湧いて来るやら分からん。
自動車運転しながら、「有難い事じゃな。勿体無いこっちゃな」。是はね私自身がそうですけれども迂闊にしておると、あれは私の部屋私のお家。そしてまるきりそこの自分が主の様な気持ちになる。その主の様な気持ちになる事がご無礼なんです。主は他にあるのだ。みな神の地所と仰る。みな神の家とこう仰る。そのわけ知らずお前が主になる所に、めぐりを作る元が出来るのぞ、とこう仰る。
皆さんここんところをようく分からして貰うとね、金光様のご信心のいわゆる、いよいよ有難いと言う物が頂けれる。一事が万事にそうなんですその上にお社であり、その上に御神米である。どうして神様がわざわざ私が御神米を一つ、古賀さんも忘れて行く私も渡すの忘れたから。今日の御理解を頂く為に是であったと言う事を感じるのです。どうぞ今日、取分け一日をその様な生き方。
こういう例えば車に乗せて頂く資格はないのだけれども、特別に神様が、おかげを下さっておるという気持ちになれば、そこから自ずと生まれて来るのは、相済まん事だとか、勿体無いなと云う事になって来るのですよ。そういう気持ちあらば、車に事故はない、と言う事になる。女が菜園に出て野菜を抜く時に、大地を拝む様な心持になり、それを煮て食する時に。
「神様頂きます」という心あらば、当たる事なしと仰る。ほんなら車も同し事。主は神様貸して頂きます。資格もない私に是を貸して頂く、と。勿体無い。そういう気持ちあらば、事故はなしと言う事にもなるんじゃないでしょうかね。今日はぎりぎり、そこんところをですね、一つ体験させて頂く同時に、そこんところを本気で、一つ行じさして頂こうと思うのです。
どうぞ。